村上春樹ノーベル文学賞受賞ならず

昨日が発表の日だということをhttp://blog.tatsuru.com/2008/10/09_1307.php経由で知ったのですが受賞とはいきませんでしたね。
内田樹さんのコメント読みたかったのですが残念。
まあ受賞せずとも村上春樹が日本のみならず世界でも有数の作家の一人であることはもう間違いないでしょう。

これほどの世界的な作家になった理由について内田樹さんは以下のように述べています。

私たちが世界のすべての人々と「共有」しているものは、「共有されているもの」ではなく、実は「共に欠いているもの」である。その「逆説」に批評家たちは気づかなかった。

村上春樹は「私が知り、経験できるものなら、他者もまた知り、経験することができる」ことを証明したせいで世界性を獲得したのではない。「私が知らず、経験できないものは、他者もまた知り、経験することができない」ということを、ほとんどそれだけを語ったことによって世界性を獲得したのである。

私たちが「共に欠いているもの」とは何か?

それは「存在しないもの」であるにもかかわらず私たち生者のふるまいや判断のひとつひとつに深く強くかかわってくるもの、端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである。

生者が生者にかかわる仕方は世界中で違う。けれども死者が「存在するとは別の仕方で」(autrement qu'etre)生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じである。「存在しないもの」は「存在の語法」によって、すなわちそれぞれの「コンテキスト」や「国語」によっては決して冒されることがないからだ。

村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の世界性を担保している。、

From 村上春樹にご用心 or 村上春樹 イエローページ〈2〉 (幻冬舎文庫)の「激しく欠けているもの」について 

ちなみにこの文章はhttp://blog.livedoor.jp/robinsnest/archives/50779786.htmlから一部コピペさせてもらいました。

また村上春樹自身も村上春樹全作品 1979?1989〈6〉 ノルウェイの森の「自作を語る」100パーセント・リアリズムへの挑戦 で下記のように述べてます。

この小説の中では沢山の登場人物が次から次へと死んで消えていく。そういうのはあまりにも都合の良い話ではないかという批判も多く頂いた。でも弁解するのではないけれど、正直に言って物語がそれを僕に求めていたのである。本当に僕としてはそうする以外に方法を持たなかったのだ。そしてこの話は基本的にカジュアルティーズ(うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話である。僕がここで本当に描きたかったのは恋愛の姿ではなく、むしろそのカジュアルティーズの姿であり、そのカジュアルティーズのあとに残って存続していかなくてはならない人々の、あるいは物事の姿である。成長というのはまさにそういうことなのだ。それは人々が孤独に戦い、傷つき、失われ、失い、そしてにもかかわらず生き延びていくことなのだ。

こういう文章が心の琴線に触れるようになったのは年をとったせいかも。

最近はロング・グッドバイグレート・ギャツビー、ペットサウンズ、ティファニーで朝食を、といった翻訳に力を入れているようですがそろそろ長編が読みたいです。短編でもいいけど。
直近の長編(というか中篇)といえば2004年のアフターダーク、短編といえば2005年の東京奇譚集になるし。長編は3年に一冊と言っているのでそろそろ欲しいところ。