村上春樹と村上龍

村上春樹村上龍という現代を代表する作家が2人いる。ほぼ同年代で親が教師という以外は共通点はとくにない。作品のテーマ、文体もまるっきり違う。
ただ今はどうかわからないがすくなくともデビューから数年は互いに意識し合っていたのでないだろうかと思える。

以下のデビュー作から第三作をみるとーそれぞれ群像新人文学賞芥川賞を受賞して華々しかったデビュー作、代表作の間で影が薄い第二作、長編であり飛躍した第三作ーという点では共通しているように思える。この三作品を見る限り、セールス的にいっても文壇の評価的にいっても村上龍が一歩リードの感は否めない。もっともその後両者ともに傑作が次々と生まれた今となってはそんな比較自体意味は無いが。

この2人が対談した唯一の本がある。それが絶版になって久しい「ウオーク・ドント・ラン」である。

対談が行われたのが、村上龍が「コインロッカー・ベイビーズ」を書き上げており、村上春樹は「羊をめぐる冒険」をまだ書いておらず「街と不確かな壁」を書いたという時期である。
「街と不確かな壁」は著者自身が失敗作と思ったため雑誌文学界に掲載されたのみで本にはなっていない。もっとも後の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の世界の終わりのほうのパートになるわけだが。

この対談のなかで村上春樹が「コインロッカー・ベイビーズ」(この作品はおそらく村上龍の文学的業績のトップクラスに挙げられるだろう。ある意味これを超える作品は「半島を出よ」まで無かったと行っても過言ではないだろう)のことに言及しているがこれはお世辞ではなくその作品に刺激を受けたからだろう。

その証拠に全集の解説で

もうひとつ、僕がこの作品を書くことができたのは、その一年ほど前に村上龍氏が『コインロッカー・ベイビーズ』という力強い作品を書いていたせいもあると思う。僕はその小説の有する長編小説的エネルギーーそれは他の何者によっても代換されえないものだーに揺り動かされたし、それが僕にとってもかなりの創作の刺激になったと思う。優れた同時代のランナーを僚友としてあるいはライバルとしてあるいは目標として(あるいはその全部の混合物として)持てることは、創作をする人間にとっては貴重な財産である。『羊をめぐる冒険』を書くにあたってはそういう刺激がけっこう大きな推進力の役割を果たしてくれた

といっている。

当時まだジャズ喫茶の仕事をしていた村上春樹もその後専業作家となり「羊をめぐる冒険」を書く。さすがにこれくらいボリュームのあるものは専業でないと難しいのだろう。

デビューにいたるまでの道のりも面白い。
村上春樹はもともとジャズ喫茶の仕事をしていたが1978年ヤクルト優勝の年に神宮球場の外野席でふと小説を書こうと思いたって「風の歌を聴け」を執筆する。

一方村上龍のデビューは1976年だが当時は追いつめられていたようだ。ただこの文章を読むと震えるのも確かだ。高校時代が「69」、浪人時代が「村上龍映画小説集」、福生時代が「限りなく透明に近いブルー」と考えていいだろう。

わたしは、幼いころから性格が団体行動に合わなかった。教師や目上の人から指示・命令されると、とにかく反発してしまう子どもだった。幼稚園のころから、お前はサラリーマンにはなれないだろう、と親や教師や近所の人に言われながら育った。だからいつの間にか、サラリーマンという就業を除外して将来のことを考えるようになった。小学校から中学校にかけては、医者になろうと思っていたが、高校で受験勉強を放棄したので医学部の受験はあきらめなければならなかった。今の日本社会では受験勉強をしなければ医師になることはできない。絵を描くのが好きだったので、美術大学を目指したが、現役での受験には失敗した。ピカソゴッホルノワールが受験勉強をしたはずがないが、今の日本社会では受験勉強をしなければ画家にもなれないのだ。それで長崎県佐世保というところから東京に出てきて、浪人を始めたが、田舎から東京に出てきた18歳が、まじめに受験勉強などするわけがない。

東京都下の米軍基地のそばに住み、受験生としてはもちろん、人間としてもかなりやばいことをやりながら、あっという間に2年がたってしまった。人生の暗黒時代だった。その暗黒時代にも、サラリーマン(アルバイトを含む)になるなど考えもしなかった。20歳を過ぎて、もうどうしようもなくなり、私立の美大に何とかもぐり込んだ。絵を描いて、それを売って生活できないかと思ったが、甘い夢に過ぎなかった。大学へはほとんど行かずに、絵ばかり描いていた。欠席が多すぎて単位は取れないし、1年留年して、5年かけてとりあえず4年生にはなったが、卒業できる見込みはなかった。もう23歳になっていて、いつまでも親から養ってもらうわけにはいかないし、焦ってきたが、それでもサラリーマンにはなれないと思いこんでいて、どこかに勤めようとか、まったく考えなかった。

当時を振り返ってみると、基本的な決定事項が2つあったように思う。1つは、もう23歳なんだから何とかして自分で食べていかなければならないということ、2つ目は、でもサラリーマンにはなれないということだった。いつまでも親に養ってもらうわけにはいかないと思っていた。だがそれは親孝行とか独立心というような立派なものではなかった。親に養ってもらう限り、自由が手に入らないと確信していたのだ。九州の故郷に帰るなんて絶対にごめんだと思っていた。親と一緒に住みながら、どこか故郷の会社に勤めるなんて冗談じゃないと思っていた。親から離れて好き勝手に生きたいから東京に出てきたのに、23歳にもなって親元に戻るなんてばかげている。しかし東京にいる限り、親からの送金がストップしたら、もう生きてはいけない。だから何かで自分一人で食べていくしか方法はなかった。しかし、それはサラリーマンではいけないのだ。なぜなら、自分はサラリーマンには「向いていない」からだ。それで、追いつめられて、23歳の秋に、それまで少しずつ書きためていた「限りなく透明に近いブルー」というタイトルの小説を完成させたのだった。

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村上龍はデビュー作からしてベストセラーだったわけだが、村上春樹にとってのベストセラー作品は「ノルウェイの森」まで待たなければならなかった。そのことは両者にとっていいことだったのかどうかはわからないがベストセラー作品を書いたことは重要だろうし、その後も大きな意味を持ったに違いない。