若者はみな悲しい

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

「お坊ちゃん」と「冬の夢」がやはりというべきかぬきんでている。「お坊ちゃん」の書き出しは3種類の訳で読んだけど村上春樹のが一番すごいなあ。

 個人というものを出発点に考えていくと、我々は知らず知らずにひとつのタイプを創りあげてしまうことになる。一方タイプというところから考えていくと、今度は何も創り出せないー何ひとつとして。たぶんそれは人というものがみんな、見かけより異常であるせいだろう。我々は他人や自分自身に対してかぶっている表向けの仮面の裏では、どうして風変わりでねじくれているのだ。「私はごく当たり前の、包み隠すところのない、あけっぴろげの人間ですよ」と言う人に会うたびに、僕はこう思う。この男にはおそらく、世間からなんとしても押し隠さざるを得ない、はっきりとした、おぞましい異常な部分があるのだろう、と。そして自分をありきたりの包み隠すところのないあけっぴろげの人間だといちいち断るのは、自分の異常性をうっかり忘れぬための手だてに違いあるまい、と。
 世間にはタイプなどというものは存在しない。二人として同じ人間はいない。ここに一人の金持ちの青年がいるわけだが、これはあくまで彼の話であって、彼らの話ではない。

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (村上春樹翻訳ライブラリー) - はてなキーワード

 ある個人を語ろうとすると、それだけで人間のタイプを語ってしまう。もしタイプから始めると、話はどこにも行かなくなる。誰だっておかしな生き物だ。外に向けた顔、しゃべっている声の裏へまわれば、人に思われたいよりも、自分で思っているよりも、おかしな存在なのである。もし「ごく普通の、裏表のない男です」などと自称する人がいたならば、これはもう相当な異常者で、その異常を隠すつもりになっている、と判断してよいだろう。ごく普通で裏表がないとまで言うのは、どれだけ異常なのか知っていて、なお知らん顔するに等しい。
 だから人間をタイプで考えるのはよそう。複数ではなく、ある一人の物語だ。金持ちのお坊ちゃんの話である。

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫) - はてなキーワード

 個々の人間から話をはじめると、誰しも気づかぬうちに人間のタイプをつくり上げてしまう。では、タイプからはじめるとどうか。そこからはー何も生まれはしない。それというのも、ぼくらは誰もが変わり者だからだ。表情とか声の背後にひそむ風変りな面は他人にはどうしても知られたくない。よもやそれほど風変わりとは、自分でも思い及ばない。だから、自分は「平凡で、率直で、あけっぴろげな人間ですよ」と公言してはばからない男がいたとしたら、その男はまぎれもなく異常ーおそらくは身の毛がよだつほど異常ーなのだが、それをけっして他人にさとられまい、と心に誓っているのだ。みずからを平凡、率直、あけっぴろげ、などとわざわざことわるのは、おのれのやましい隠しだてをしかと自覚するための、その男なりの工夫にきまっている。
 タイプなどというものは存在しないし、同じ人間は二人といない。ここにひとりの金持ちの青年がいるが、これから語ろうとするのはその青年個人の物語であって、青年の同類の物語ではない。

フィッツジェラルド短篇集 (岩波文庫) - はてなキーワード

あとがきによるとグレート・ギャツビーも今年の秋に出るらしい。当面村上訳が確固たる地位を占めるだろうことが想像されるけど、それでも訳したいんだろうなあ。フィッツジェラルドの文章って訳者がトライしたくなるような性質を持っているんだろうな。